東京時代まつり行列歴史絵巻

日時:

平成23年11月3日(文化の日)
午後12時30分 浅草寺本堂北側広場にて出発式 
午後1時出発
午後4時30分 浅草寺本堂裏広場にて解散
[地図はこちら]
※当日雨天の時は小雨決行、荒天中止

主催:

東京時代まつり実行委員会

後援:

東京都、台東区、ときめきたいとうフェスタ推進委員会

協力:

浅草神社奉賛会、ボーイスカウト東京連盟

ボランティアスタッフ:

都立白鴎高等学校、都立浅草高等学校

役員

東京時代まつり実行委員会会長:浅草観光連盟会長
名誉会長:台東区長
名誉顧問:浅草寺貫首

編成人員

30チーム、1600名

 

行列のプログラム

2011.11.2更新

浅草のよろこび 金龍の舞
金龍の舞、楽人、役員
(浅草寺舞保存会、浅草寺幼稚園)
安宅丸
東京時代祭
本旗、手古舞
(桑沢デザインスクール、地元有志)
奉行
役員(黒紋付・裃・一文字笠)
(浅草観光連盟)
東京のあけぼの 浅草観音示現
十童子、観音像網得の図、土豪(土師真仲知)、漁師(檜前浜成、檜前竹成)
(浅草寺幼稚園、浅草馬一町会)
  推古36年(西暦628年)3月18日。隅田川の清流を漁労中の檜前浜成・竹成 の兄弟が、漁網の中から黄金の観音像を 発見しました。 土地の豪族土師真仲知は、これに深く感銘。自宅を改め寺とし三人は礼拝に生涯を捧げます。これが浅草寺の起源であり、後生この三人は、浅草の開拓者として、三社大権現の尊称を奉られ、三社祭へと発展していきます。秘仏の観音像は浅草寺本堂に奉安され、今なおこの都を守り続けています。
  観音像が祀られたその夜のこと。堂舎を守るようにその周辺に千本の松が生え揃い、その三日後天より長さ百尺の金鱗の龍が舞い降りたと伝えられています。金龍山浅草寺の山号はその故事にちなんだものです。昭和33年本堂完成記念ご開帳に際し金龍は再びこの世に舞い降りてきました。長さ15メートル重さ150キロ先頭に観音像を表した蓮華珠。いなせな男衆があやつる金龍の舞は勇壮華麗の一言に尽きます。
在原業平 東下り
在原業平(狩衣) 、狩衣侍女、従者
(千束小、田原小、一般公募 、立正佼成会)
源 頼朝 隅田川陣営
武者行列、源頼朝、豪族・江戸氏、供侍、畠山重忠、千葉常胤 侍大将、武者、土肥実平
(浅草商店連合会、郵政・浅草グループ、区民参加、朝日信用金庫、地元有志)
北条政子 浅草寺参詣
北条政子、女官、供侍
(区民参加)

 




三社大権現祭礼 船渡御
びんざさら舞、白鷺の舞、神輿一之宮、神輿二之宮、神輿三之宮、江戸囃子
(びんざさら舞保存会、浅草寺舞保存会、金竜小、浅草神社総代、奉賛会事務局、各町会長、浅草寺幼稚園、地元有志、区民参加、三町会(馬二、浅二、浅草中央)、三網、浅草神社、花二岩戸、美風連社中)
  浅草神社の三社祭は、江戸下町を代表する伝統の祭礼です。三社大権現を祀る本社宮神輿3基が町内を練り歩き、神社では、田楽踊りの名残を留めるびんざさら舞と浅草寺に伝わる白鷺の舞が奉納されます。江戸末期までは神輿を奉ずる船が隅田川を駒形まで漕ぎ上がる船祭も伝わっていました。この船渡御を舟形の山車で再現しています。
江戸開祖 太田道灌
太田道潅(狩装束)、重臣、従者・山吹娘
(東京都、地元有志、根岸小、谷中小、台東育英小、自衛隊協力本部、桑沢デザインスクール )
  康正2年、西暦1456年、太田道灌は、12世紀の豪族江戸重嗣の屋敷跡に、江戸城を築城します。江戸城は攻め難く、守り易い名城として当時から評判でした。また道灌は和歌の素養も高く、鷹狩りに出て雨に遭った際、実のならない山吹で蓑のない事を告げた娘の逸話は有名です。
十一 江戸城築城 御石曳き

(御徒町台東中学校)
  慶長8年、西暦1608年、征夷大将軍となった徳川家康は江戸城の大拡張工事を発表し、諸大名に命を下した。城に適した岩を産出し、しかも江戸に近いという条件から、相模や伊豆海岸が選ばれた。
十二 徳川家康 江戸入府
徳川家康・秀忠、小姓、四天王、井伊の赤備え
(徳川慶喜公顕彰会、台東区川柳人会、立正佼成会、墨田区観光協会、墨田区観光課)
  天正18年、西暦1590年、関東平定に功遂げた徳川家康は江戸に入府。江戸城を修築し、浅草寺を祈願時に定め、元和2年、西暦1616年には自ら参詣しています。その信仰の厚さは二代秀忠の二天門、三代家光の三社権現社建立へと受け継がれ、安らかなる江戸の礎となってきました。
十三 徳川家光 三社権現社再建寄進
徳川家光、柳生但馬守、松平伊豆守、土井大炊守、小姓、警護侍
(台東区長、台東区、田原小、少年リーダー研修会、自衛隊台東出張所)
  幕藩体制がより強化された徳川家光の時代。慶安2年(1649年)に浅草神社(三社大権現)が建立された。300有余年前の江戸時代初期の権現造として知られ重要文化財に指定されている。
十四 参勤交代 大名行列
供侍、家老奉行、小姓、奴、露払い
(会津藩奴隊、付添、区民参加、東泉小、リーダー研修会、自衛隊協力本部 )
  長槍を先頭に、軍陣の体裁を整えたものものしい行列。「下に下に」のかけ声と共に、重厚なる一段が街道を往く-寛永12年(1635年)徳川家光によって確立された参勤交代制は、諸大名に一年ごとの大移動を義務づけました。格式を整えての長い旅路は、多額の費用を要し、この時代に独特の光と影を投げかけています。

 




十五 大岡越前守と江戸町火消
大岡越前守忠相、与力・同心、町火消
(江戸消防記念会、NTT東日本-東京)
  享保2年(1717年)。八代将軍吉宗は、大岡越前守忠相を江戸南町奉行に任命します。有名な大岡裁きの他にも、目安箱の設置。新田の開発などに尽力し、特に家屋の構造を心得た鳶職・大工を中心に江戸町火消いろは48組を組織した功績は大きく、後世の評判に違わぬ名奉行でした。
十六 浅草市村座七福神舞
福聚の舞
(浅草寺舞保存会、鳶)
  恵比寿に大黒、弁財天・・・・七福神は福徳の神として知られています。江戸末期、歌舞伎・市村座の座主は浅草観音への信仰厚く、一座の興業の前狂言として「七福神踊り」を上演して観音様の功徳をたたえました。昭和39年、宝蔵門落慶の記念行事としてこの踊りは復興し、見る人を和ませています。
十七 猿若三座 江戸歌舞伎
白浪五人男、花川戸助六、髭の意休、中村座、市村座、守田座
(浅草小学校、地元有志、自衛隊台東出張所)
  出雲大社の巫女・阿国(おくに)を祖とする歌舞伎は、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎が江戸に一座を開いたのを皮切りに、隆盛期を迎えます。その後、一時は人気役者と奥女中との不義密通事件から全座休座を命じられますが、やがて中村座、市村座、守田座のみが興業を許され「江戸三座」として日本の伝統芸能を育て上げていきました。
十八 江戸の人気者
水戸黄門、一心太助、松尾芭蕉、播随院長兵衛、水野十郎左衛門 他
(地元有志、六真企画)
  火事と喧嘩は江戸の華。気っ風の良さは誰にも負けぬ。天下御免の一大事。一心鏡の如く駆け抜けりゃあ、義理が憂き世のしらがみでえ。男侠気に人情話。ちょいと知られた伊達男。江戸は今宵も大騒ぎ。ええい!控えい!この紋所が目に入らぬかあ!
十九 江戸芸者
芸者衆、出の衣装
(東京浅草組合)
  芸者の起源は元禄時代、遊廓で遊女の伎芸不足を補うために生まれた、太鼓専門の女性がその始まりだったと伝えられています。吉原の場合は特にその傾向が強く、明らかに遊女とは一線を引いた、三味線音楽と踊りの専門家でした。町芸者では浅草、広小路芸者、深川の辰巳芸者が有名で、下町の夜に小気味よい爪弾きの音を響かせていました。
二十 日野市新撰組
近藤勇、土方歳三、沖田総司、隊士
(日野市観光協会)
  幕末期、騒然となった京都の治安を維新志士達から守るために結成された、朱に「誠」の文字の旗、浅黄色にだんだら模様の羽織姿で京の街中を震え上がらせた新撰組。近藤勇、土方歳三、芹沢鴨、沖田総司など今に名を残す強者は結集した。まさに幕末時代を駆け抜けた最後の剣客集団。しかし、新撰組の結成から土方歳三の死まで、わずか6年の運命だった。

 



二十一 第十五代将軍 徳川慶喜
徳川慶喜公、小姓 警備侍
(徳川慶喜公顕彰会、金竜小)
  幕末。時代が大きくうねりを上げ、多くの優れた人物が自らの血を理想に捧げた時代。最後の将軍・徳川慶喜---家康以来の知性といわれ、幕府最後の砦と頼られながらも、日本の将来のために大政奉還を決意し、徳川三百年の歴史に潔く幕を引きます。その日大政奉還の提案者・坂本龍馬は、慶喜の精神の高貴さに感涙したと伝えられています。
二十二 江戸から東京へ
西郷隆盛、勝 海舟、山岡鉄舟、大久保利通、坂本竜馬、彰義隊、官軍
(一般公募、浅草中学校)
  慶応4年(1868年)。慶喜の大政奉還によって、元号は明示へと改まりましたが、安定した時代を築くためにはさらに多くの血を必要としました。同年5月には、旧幕臣2000名余りが上野の山に集結。彰義隊として官軍に徹底抗戦を試み、無惨にも壊滅させられていきます。西郷隆盛・坂本龍馬・大久保利通・・・・命をかけて日本の夜明けを築いた多くの偉人たちのように、彰義隊もまた時代の礎であり、やがて江戸は東京へと移り変わっていくのです。
二十三 文明開化 鹿鳴館
樋口一葉、郵便、巡査
(車夫、一般公募、地元有志)
  残切頭を叩いてみれば、文明開化の音がする---急速な近代化への流れの中で、馬車が走り、ガス燈が灯り、銀座通りに赤煉瓦の洋館が建ち並ぶ。この時代に樋口一葉が24年の短い生涯のうちに、「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」といった珠玉の作品を生み出しました。今発行されている五千円札の肖像に採用されており、私たちの身近にいつもいます。
二十四 浅草奥山風景
飴売り、瓦版売り、玩具売り、唐辛子売り
(六真企画)
  浅草寺裏手、奥山の栄えは江戸時代より。諸国から集まる見世物小屋・大道芸人。境内には水茶屋・瓦版。江戸の賑わいを一手におさめるほどの繁栄は、文明開化の世にも変わらず。明治17年(1884年)浅草六区指定後も、十二階凌雲閣・軽業・芝居に活動写真、活気と熱気の交差の中で、東京の娯楽は常に浅草から出発していった。ご覧あれ、浅草奥山の主たちの姿を。なつかしくもあり、新しくもあり、そして何よりたくましい。
殿
[しんがり]
横断幕
(白丁)
  瓦版配布
観連瓦版
(地元有志)
 

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